今日のニュースは未明に起きた北海道の地震の報道一色。
昨年の九州の水害から始まって、中国四国地方の風水害、岐阜県その他の
台風被害、そして今回の台風21号による関西空港水浸しや、東日本全域
に及ぶ被害、そしてとどめが今朝の北海道の地震。
文字通りの災害日本列島である。
・・・・・・・・
作家・国木田独歩の短編の「牛肉と馬鈴薯」の中に、「国民の意識を一つに
まとめるつー意味では、戦争も必要かもしれませんなあ。」つー下りがある。
また、現存の作家・石原慎太郎が、「時代閉塞状況にあり、停滞している国民
意識の覚醒の為に、ナショナリズムを高揚させる効果のあるオリンピックの
誘致が必要であると説いて自らオリンピックの誘致運動にのめりこんだのは
記憶に新しい。
(確かに、私もオリンピックは、国家間の疑似戦争であると思う。)
古来、権力者政治家は、国内の政治行政への不満の矛先をそらすために、意図
的に戦争を起こして!きた。
経済不況や失政への矛先を勝てる相手に向けるだけではなく、資本主義の構造
的な欠陥を戦争特需によって覆い隠すつー必然的側面もあった。
(その典型例はいうまでもなくアメリカである。)
・・・・・・・・
こんな折り、被災地以外の日本列島は、2020年のオリンピックの話題で、
持ちきりといっても過言ではない。
政治家と言えば某森元首相のように世界選手権の開催のためのラグビー場や、
国立競技場建設費について「なんぼかかったっていいじゃねえか。」これで
ある。
文化・文明についての意識、あるいは国家観つーものをおよそ持ち合わせて
いない、昔ながらの、大きいものを造ってその礎石に自分の名前を刻みたい、
つー時代遅れの愚かさを象徴している。
メキシコは、1968年にオリンピックを開催し、明るい国民性でそれはそれで
世界は楽しめたのだが、いわゆる国家としての「格」は、いまだ夏のオリンピ
ックを開いてないオーストリアやスェーデンよりも上がっただろうか?
1988年にオリンピックを開催した韓国は、そのことによって世界の尊敬を
獲得することができただろうか?
近年は、国民の意識高揚の手段として戦争の代わりにスポーツイベントが
利用されている。
だがスポーツイベントなんつーものは、一過性のまやかしに過ぎない。
そのまやかしに我を忘れて、国じゅうでのめり込むなんつーのは、一言で
いえば「ソドムの市」に他ならぬ。
数兆円にも及ぶオリンピックの開催費用を、近年の自然災害への復興資金や、
先進国としてはお粗末なインフラ設備の建設の費用に振り向け充当するつー
知見が政治家連中から一向に出てこないことに、ふんとうに呆れるのである。
(このたびの関西航空滑走路の高波による水浸しなんつーのは、ギャグであ
る。非常発電設備は地下にあって無論水没。アハハ。)
高い建築物の建設や大きなスポーツイベントの開催が、いわゆる「文化国家」
である、なんつー意識を持つことは、それ自体が文化的つー形容詞からは、
乖離したものであって、言わば「田舎者の発想」である。
(身近なところでは、私の住む自治体は、スポーツイベントをやたらにやら
かす。が、管理責任のある、市内のほとんどの公園は雑草だらけで荒れ放
題である。)
最近の、「これでもか、これでもか」つー自然災害(「天災」の続発に、
政治家はもとより、日本国民全てが、自らの意識を省みることの無いことが
私には異様に思えるのである。
最近の自然災害は「ソドムの市」の日本にたいする天からの警告であろう。