数日前、あるTV番組で故新田次郎のせがれの藤原正彦さんと故阿川弘之
さんのむすめの阿川佐和子さんが「いじめ」について対談していた。
藤原さんの考えで、尤もだとイチバン同感したのは、子どものイジメ自殺が
起きるたびに、教育関係者が「命の大切さを子どもたちに説く」つーこと
くらい無益でナンセンスなことはない。 と、いうところ。
れよりも、弱い者イジメほど人間として恥ずべき卑怯な行為はない、つーこ
とを徹底的に子どもたちに叩き込むべきだ、と。
げにげに、然りである。
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私がその著書を通じて知った戦後日本の保守的な知識人は、田中美知太郎さん、
福田恆存さん、西部ススムさん等がいるが、この藤原正彦さんもその主張が、
至極当たり前にこちらの胸にストンと落ちる。
いわゆる政治的な主張をするわけではないが、日本人としての自然な感覚を
身に着けているからだろう。(保守的とされる学者や評論家の中には、その思
考プロセスそのものが西洋からの借り物であることに気が付かず、自分では
論理的に意見を開陳していると錯覚している者も多い。)
石原慎太郎さんなどはその典型で、その論文を読むと、およそ日本人の文章とは
思えぬほどである。(まあ、まさにそれゆえに欧米人たちには理解しやすく、
また逆に、日本人の保守層の大半が石原さんの考え方と同じだと誤解を受けて
しまう怖れがある。)
が、いうまでもなく藤原正彦さんのような感覚こそが普遍的な日本人の感覚なの
である。
いわゆる「国民性」は、例えば隣国の韓国のついて我々がおよそ理解不能と匙を
投げ出す如く、外国人には理解できるものでもないし、理解を求めるべきもので
もない。
その国の歴史的風土によって育まれた人間を見る目、人間観による以外に我々が
依拠するべきものはありえないのである。
「命の大切さ」なんつー西洋的価値観を引っ張ってくる見当違いも嗤えるが、
被害者に説教を垂れるつーさかしまな倫理観にも私は呆れかえるのである。
そも、他人に意味もなく興味を持つことの浅はかさを最初に気が付かせること
が何より重要で、これはいうまでもなく加害者側への教育である。
私の職場にも、のべつおしゃべりをしている輩がいて、こういう手合いは、話題
が途切れると必ず直接間接に同僚の評価(悪口)を言う。自分の立場を忘れて、
人事課長のつもりになっているのが嗤わせる。
私はこういった人物の話には何ひとつ得るところも啓発されるところもないと
常々思っているので、一切耳を貸さぬ。時間のムダであるからだ。
大人になってしまうとこうした人間性は矯正不可能である。
保育園児、幼稚園児の段階から興味を持つ対象は自分自身であって、決して他人
でないこと。競争するのは他人ではなくて、昨日までの自分であること。を
わからせなくてはならない。