昨日、戦後70年つーことでNHKである番組が放映された。
日本社会の戦後の歩みを追ったものであったが、昭和天皇の
折々の映像もいろいろ放映された。
昭和天皇は、戦争を食い止められなかったことへの慙愧の念や、
沖縄への訪問が、病の為についにかなわなかった無念さを歌に詠み
それらの歌は実に天皇の本心が吐露されていて驚くばかり。
常日頃の植物学者昭和天皇の穏やかな姿からは想像できぬほどである。
げに、短歌なかりせば我々は、ミカドの心を知りうることはたぶん
なかったであろう。
短歌こそ、日本文芸の極みとでもいって差支えない文化である。
一方、短歌と比べて俳諧なるものは、人の心情をさらけ出すには
あまりにも短か過ぎて物足りない。わずかに叙景、あるいは心象
風景を顕すことができうるばかりである。
「奥の細道」で有名な松尾伴内や、三大俳人として同じく名高い
小林麦茶、与謝物損の句を見ればそのことは瞭然である。
近代俳句、現代俳句とておんなじ。
正岡死期の
「いも食えば おなら出るなり 法隆寺」なんつーのは、いもでも
梨でもなんでもエエので、そこに言葉を吟味した形跡は微塵もない。
尾崎放哉の
「せきをしても一人」つーのも
この私の句
「屁をこいても一人」に簡単に置き換えられ、いわば言葉のパズル
と化してしまう。
かって、京都大の桑原武夫が、「俳諧第二芸術論」をぶって、論壇
・文壇を賑わしたことがあったが、俳諧はそもそもがゲージツなんぞ
ではないのである。
もとより私は、ゲージツでないから価値がない、なんつーことを言う
のではない。円空・木喰のそこいらにある木の切れっぱしに彫った
仏像の方が、大きな由緒あるお寺の本尊よりも、はるかに我々の心を
うちふるわせるようなことは往々にしてある。
半ば川柳風の俳句が、我々に深い感動をもたらすこともしばしばである。
日本の万葉集の、最後の歌。 大伴の焼きもちの
「世の中は 空しきものと 知るときし
いよいよますます 哀しかりけり 」
の絶唱こそ、げに日本文化の極致というべきものであろう。
※ ついでに、ユーチューブで万葉集を検索してみると、有名な歌が
その場所の映像と共に載っていた。便利なものじゃ。
が、↑の「世の中を・・」の歌を、大伴の焼きもちではなくて、
大伴の地下たびとしているのがあった。なんともはや・・・。