私はTVのCMが嫌いなので、もっぱらNHK。
特に番組を選ばず、点けっ放しつーことはよくある。
先ほども点けっ放し。(私はビルにやられてウトウト・・。)
ふと目を開けてTVを見やると、(日本の)フォーク・ソングのライヴ特集が。
番組の進行はフォーク歌手の南剽窃とクジラ。
流れるのは4畳半ソングばかり。たまにPPMやボブ・ディランのコピー曲を
ジジババが歌うのだが、それは退役軍人の同窓会での軍歌の合唱そっくり。
日本には、いわゆるプロテスト・ソングつ~意味合いでのフォーク・ソング
は全く存在しないと言っても過言ではない。
ボブ・ディランやジョーン・バエズの歌も日本ではたちまち同好会ソング、
「仲間との連帯の確認」の浪花節となってまう。
あの胸糞のわりい、夜のNHKラジオ番組の際の、落語家やタレント達が
内輪の話をして、視聴者そっちのけで勝手に盛り上がっているのと同じ
であって、彼らは公衆の面前でマスターベーションしているのである。
クジラとかミナミ剽窃なんつーのが番組を仕切ってること自体、日本的
実に日本的な有り様である。ど、どこがフォーク・ソング特集なのだ。
日本のフォーク歌手達の有り様は、NHKを蝕んだいわゆる若手落語家
連中の内輪話で盛り上がる宴会とちっとも変わらぬ。
そこには、「こきりこ」や「越中おわら節」の民衆の苦しみから生まれた
哀切さも、「五木の子守唄」の民衆の絶望のひとかけらも存在しない。
あるのは、ただ良い子の優等生連中の同好会の連中のセンズリ、マスター
ベーションである。
日本には戦後、ただの一度さえも、ただの一つさえもフォーク・ソングは
存在しない。
※ 日本における、いわゆる「左翼」陣営の弱さは、それに関わる人々が、どいつも
こいつもおぼっちゃん、おじょうちゃんであることにその原因がある。
反核、反原発の大江健三郎、フォーク・ソング界のクジラや南剽窃、文学での
村上春樹等々・・・。
彼らの作品に感動を受けぬのは、その中にふるさととの繋がりを感じないからである。
彼らの「反体制」はポーズに過ぎぬ。ただの日和見である。(村上のパレスチナ問題
へのコメント、卵だかなんとか、の文章を見よ。哂っちまうわい。)