昨日は完全にアタマにきた。
カトリック・クソババアが書いた新聞の一文を読んだせいである。
曽野のクソババアが、例のタイガー・マスク現象のことを、胡散臭く、社会にとって害毒であるかの
ような書き方をしている。
タイガー・マスク現象(運動)については、「なぜ匿名なのだ。正しいことは堂々と
やればエエ。気恥ずかしさを覚えるなんて、幾ら国民性とはいってもやはりヘンだ。」と
いうような意見(感想)などは、私もナール、と幾分思ったりした。
が、ババアのはそんな風なものではない。
例によって、自分が関わったアフリカ等の途上国での例を引き合いに出して、
そんな甘っちょろい善意なぞ、あっちでは全く通用しない。逆に犯罪の種を蒔く
ことになりかねず、人心を荒廃させるだけである。とのたもう。
日本社会、すなわち日本人の生きる世の中とババアの関わった社会を
全く同一視しているのが先ず気に入らん。クソババアがカルチャー・
ショックを受けて、人間の認識が変化したことは、ババアの勝手である。
我々の知ったことではない。
大目に見てればクソババア、勝手なことばかりー
人間の本質は、もっと醜いもので、エゴイストでエゲツナイもので・・・
ババアの書く人間論、社会論はそればっかりだ。
なるほどたしかに人間の本質には、目をそむけたくなるようなエゲツナイところは
あるだろう。
だが人間つーのは、それでも一筋の光に最後まで希望を抱く存在であるのだ。
どんなに非人間的な所業をした人であっても何かしら一つエエことをして、
人に(神様)に誉められたいと思う存在なのだ。
人間にはクモの糸が必要なのである。
ドストエフスキーの「死の家の記録」にはそういう人が出てくる。そいつのニヒリズムは、
クソババアのそれどころではない。
それでもやはり、少なくとも一つくらいは、オフクロか(信じてはいないけど)
神様に誉められたいと常に心の底で思っているものなのである。
「異邦人」から出発したカミュの文学もドストエフスキーの文学と同じ軌跡である。
先日、フランスの文学の殿堂入りをその反ユダヤ主義によって拒否されたセリーヌも。
戦争(戦場)を体験した大岡昇平や吉田秀和や小林秀雄もそうである。
人間というものの実相が、実はふんとは形容し難いほどエゲツナイものであることは
わかってはいても、それでもなお人間のエエところを我々に写し出すのがホンモノの
文学者でありゲージツ家だろう。
カトリック・クソババア、おまえの指摘する人間のクソやタンやつばやウンコを
毎日処理して生きている人間もこの世には存在するのだ。それを忘れるな !
文学なんぞしなくたって、秩父のムツばあさんや私の田舎の炭焼きのじいちゃん
だって、クソババアの人間について認識したことぐらいわかっとるわい。
うぬぼれるない。
聖書を読むとこういう人間になるのかや ?
このババアは文学者などではない !
トーフの角にその思い上がった考えの浮かぶドタマ
ぶつけて死んじまえ !
オマエなんざ、秩父のムツばあさんが植えた花木の葉っぱ一枚の
値打ちも(ねじ回しの私にとって)ないわい !