昨日、小学6年生の女の子が、首を吊って亡くなっ
た。
母親にプレゼントする為に、編んでいたマフラーで。
同級生によるイジメでいつも独りぼっちであったと
いう。
痛ましいことである。 言葉がない・・・。
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教師のイジメへの対応が、いつも適切でなかったり、
遅れたりするのは、子どもの頃から優等生であった
が為に、イジメの被害者の心持ちのふんとのところ
が理解できないのである。
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教師は政治家と似ているところがある。
数字上の国力や学力を上げることが目的であるなら、
その指導はさして難しいことではない。
だが、貧しい人々の生活水準を上げることや、でき
ない子ども達の勉学の水準を引き上げることはなか
なか難しい。
そして、政治家にとって最も大事なことは、国の中
に生活しているあらゆる人々に安心感・充実感を与
えることであるのと
同様、教師にとって最も大切で、それがかなえば達
成感を感じられることは、何といっても、一人の落
ちこぼれも無い連帯感のある、クラスを作り上げる
ことであろう。
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いまさら、この女の子の学級担任を責めても仕方な
いことだが、おそらくこの担任は、人が人をイジメ
るという行為を、そもそも理解できなかったのかも
知れない。(加害も被害も未経験であるがゆえに。)
この教師が、子どもの頃にイジメを受けた経験があ
ったなら、のけ者にされていた自殺した女の子の絶
望感を、切実なこととして共有できていただろうに
と・・・・。
残念である。
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私にも、はるか昔まだ美少年の頃、クラスをなかな
かまとめられなかった新米教師の記憶がある。
その教師は、「どうしてわかってくれないの?」と
言うと、きまってオイオイと教壇で泣き出したもの
であった。
田舎育ちの我々に、手持ちのレコードと蓄音機をク
ラスに持ち込み、クラシック音楽なるものを初めて
聴かせてくれた。
ほとんどが農家の子どもで、教科書と「家の光」以
外、一冊の本すらない環境の我々の為に、やはり自
腹で本を買って、教室に並べてくれた。
海を見たことのない我々を、夏休みに、海底が覗け
るボートにクラス全員を乗せてくれたりもした。
だから、クラスがまとまったというわけでもない。
だが、そのセンセイと、我々一人一人との距離は疑
いもなく縮まったのであった。
少なくとも、その新米教師はどんな時でも、自分を
見てくれているのだという安心があったように、今
にして思うのである。
センセイが味方なら、何の怖いことがあるだろう !
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今日の事件のクラスの担任は、「イジメは良くない
ことだからしてはならない。」というようなことで
はなくて、
「私はどんなことがあっても、この子の味方です。」
といった強いメッセージを発するべきであった。
それは何も強い精神力は必要としない。
「お願いだから !」と
オイオイと泣きながら、子どもたちに訴えてもエカ
ッタのだ・・・。
今夜の一曲 (天国の女の子に送ります・・・)