朝日新聞の所属記者のオピニオン欄「記者有論」に、文化部の女性記者が、
NHKの番組「N饗アワー」の放送打ち切りについて嘆き、その決定の再考を
求めている意見を寄せている。
「敷居を低くする」つーのが、打ち切りの要因であったということらしい。
が、記者は自身の経験もふまえて反論する。
「地域間の格差をなくし、すべての人を平等に、良質の文化との出会いの
きっかけをつくる。受信料によって運営されているN饗の存在も、まさに
その公共性にあるはずだ。」
その通りである。
そもそも「敷居を低く」つ~打ち切りの理由そのものが意味不明である。
私は、精霊の棲むような山奥の炭焼き小屋で育ったが、小鳥のさえずりと
ともに、「バロック音楽の楽しみ」で、朝、目が覚めたものであった。
クラシック音楽が敷居が高い、なんつーのは要するに「馴染みが薄い」と
いうことであって、聴こえてこなければ馴染めないのはあたりまえのこと。
放送メディアを使って、我々に馴染ませる事が基本的に公共放送の役目で
あろうに。
私は、演奏に打ち込む正装した楽団員も、当然ながら私と同じく、屁も
こけば、ご飯粒をほっぺたにつけてそれに気がつかないで電車に乗って
哂われるフツウの人間であると認識している。
閑話休題
我々が一般的に、異なる世界?と感じる、つまりその世界に対して、「敷
居が高い」という風な思いを抱くのは、一言で換言すれば、「経済格差?」
を感じるからであるが、
極々一部の大オーケストラ(N饗の場合は特殊)を除けば、そんなに裕
福な楽団はないのが普通。
そもそも少年少女の初めて彼らが楽器を手にした時、これは学校の教師
志望の少年少女も同じ事だが、お金持ちになりたいと思って音楽家を目
指すやつはおるまい。
(無論、経済的に恵まれて、生活のくびきから解放されても、自由である
べき精神を持ち得ないアホウも未だに存在するが。- 例えば、先年、
北朝鮮に演奏旅行に行ったニューヨーク・フィルの連中。)
・・・・・・・・
教師や音楽家ほど、いわゆる「下部構造(生活の諸問題)は上部構造を
(精神の自由)を支配する」つーマルクスの命題からの脱却の姿を現し
ている職業の連中はいない。(私は心底、羨ましいと思う・・・。)
先日、BSで、4人の若者がヨーロッパで音楽修行をしているドキュメン
タリーを見たが、その生活はつつましく、ただただ音楽一途であるのに
は心からの応援を送ったものであった。
我々、部外者の「ひがみ根性」を除けば、クラシック音楽にたずさわる
人達との間に垣根なんぞはないし、敷居も決して高くはない。
音楽家のブログでも読めば、ああ、こうした人種なんかつーことが、す
ぐに解るだろう。(人間の負の側面をあんまり知らない、世間知らずで
はあるが、むしろそれはその方がエエと私は考える。)モッチャンもそう
だった。
悪の世界を知らなければ音楽家になれんつーことはない。
むしろ、そういうものは一生知らん方がエエ。
(ま、私が彼らと住む世界が違うと時折感じるのは、そこんとこだろう。
これは、しょうがない。あきらめる。)
そうしたマトモな彼らが、懸命に演奏している映像はこの上なく素晴らしい。
モっチャンやベトチャンも同様である。ブラちゃんやチョピンも然り。
↑ 私は、こんなに真剣な表情になったことない。