ひと頃の天候不順も収まって、いよいよついにあの、うんこ暑い関東の夏が
やってきた。
空は灰色。しかし地上はなぜか猛暑。ちょっと動けば汗がさけさけ、もとい、
たらたら。シャツを一日何枚換えることやら。
万葉集に謡われ、枕草子や源氏物語に書かれてあるような夏の風情は、つゆ
関東地方には伺われない。ただただ暑い。それだけである。
セミの鳴き声も、関東のどんよりと曇った夏空では、絵にならん。
関東の人間が京都に憧れるのは、いろんな古典に書かれている自然の
移ろいが、いまだ未体験であるせいだろう。(さして変らんのに。(^^) )
人間、ふるさとの自然は選べない。それでも、各々、自分の子どもの頃の
自然は今よりもずっと優しかったなあ・・・、と思うものである。
(実際のところ、京都の夏はめちゃくちゃ暑い。ばらしちゃうけど、-
内緒だぞ-、あの十二単衣つーのは、夏は襟だけ。ほかは一枚きり。
男の公家衆は、裃の下は、みんなフリチン、フンドシさえつけとらん。)
実態はそんなとこ。 つーわけだ。別にひがまんでよかよ。
さっき、
ニュースで、京都五山の送り火に、この度のフクシマ原発被災地の
松を、被爆していないにも拘わらず、放射能汚染が怖さに使わぬことを決めた。
とあった。
いわゆる「伝統」なるものが、こんないかがわしいものであるのなら、
坂口安吾ではないが、京都中の寺社仏閣をすべて焼き払ってしまえ。
あんなものがなくとも、庶民の暮らしには、一向に影響はないのだ。
人間つーものは、ヘンなもので、ある時には実生活や生身の人間よりも
文化遺産やゲージツを尊ぶ。
だが、ある場合には、(ヒューマニズムにしたがって?)伝統や文化よりも
現に今、生きてる命の方を優先する。
どっちも、守れることに越したことはないが、世の中は不条理にして不定不明
なれば、そうはうまくはいかぬ。
れ ? 関東の夏が来て、どーしたって ? れれれ。
さいなら。
私は、西欧の宗教音楽を聴くと、なぜか炭焼きの爺ちゃんを想い出す。
何でかな・・・。
私は一介の肉体労働者に過ぎないが、なるべく知的な世界、精神的な世界に
近づこうと努めてきた。
でも、爺ちゃんと吹雪の収まった朝の炭焼き小屋のような名状し難い景色は、
音楽でも絵画でも未だ見たことがない・・・。
教養って何だろう・・・
知識って何だろう・・・
人間の文化って何だろう・・・。
「想い出す」つー行為がなければ、どんなことでもなかったに等しい・・・。
私は、そう思います。
ましてや、今度の大津波に我が子をさらわれた親の心持ち・・。
遺体はおろか遺留品は一切ない。
我が子を偲ぶよすがとなる筈の写真さえもない。
そうした時に、我が子のイメージを脳裏に描いて悲しみに
沈む親の姿ほど痛ましいものはあるまい。
想い出すこと。これこそが人間が人間たるゆえんであり、
まさに歴史そのものなのである。