三日ほど前だったか、夕刊に吉田秀和翁の「音楽展望」が載った。
(実は私は、この未曾有の人災と天災について、一世紀を生きた
吉田秀和翁がいかなるコメントをのたもうかと注目していた。)
果たせるかな翁は、その与えられた音楽評論のスペースの全てを
使って、65年前の ! 自分の個人的な戦争体験を語ったのである。
前回の「音楽展望」でも翁は 自分が大ファンである大相撲の
八百長問題つーよりも柏鵬戦を語って尽きることがなく、誠に
異様な「音楽展望」であったが、まあこれはご愛敬。
今回は震災後初めてのそれである。
やはり翁はわかっているのだ。
我が子を津波にさらわれ、その遺体さえ見ることがかなわぬ母親、
塩害や放射能に汚染され種まきが不可能な田畑に立ち尽くす農民。
その彼等に音楽なぞただの鬱陶しい雑音でしかない、つーことを。
音楽なぞ、人間の生存の本質的な部分に何らの関わりを持たぬ
しょせんただの慰みにしか過ぎぬつーことを・・・
昨今の音楽界は、誰かさんの言葉を借りれば「我欲」が氾濫して
音楽なぞ、と言おうものなら批判攻撃されるのが当たり前。
音楽は人と人を繋ぐとか、人の苦悩を癒やすとか思い上がった
精神構造が支配している。「絆」に至ってはギャグと言ってよい。
吉田秀和翁はさすがにそのことをわかっていたのだ。
サウンド・オヴ・サイレンスこそ、今回の悲劇にふさわしい
音楽と言えるだろう。
津波の運んできたヘドロや死の灰に覆われた大地にもしも
奏でられるべき音楽があるとすれば、それはサウンド・オヴ・
サイレンス、すなわち沈黙である。
二十年ほど前、吉田翁はやはりこの「音楽展望」の欄に、「別荘で
モーツァルトを聴いたのだが、小鳥のさえずりが耳障りで邪魔にな
った云々・・」と書いた。
このたびの原発事故による放射能汚染「沈黙の春」と津波による
「鎮魂の大地」を前にして吉田翁は、「モーツァルトを聴くには
静かで絶好だ。」とはよもや言うまい。
吉田翁は、この「小鳥のさえずりがモーツァルト鑑賞の邪魔になる。」
という傲慢な文章を書いたことを恥じているだろう。
さすがの翁であっても、いつものように「ゴメンナサイ」とは
軽く言うことがかなわぬ。
よって、吉田翁は「音楽展望」の場で、かけらほども、つゆほども
音楽に触れないことによって、あの傲慢な言葉を吐いたことの謝罪
に代えたのだ。
そのことは、三日前の翁の「音楽展望」が言外に証明している。
関東震災も戦争も体験した吉田翁は誰よりも世の中の不条理を
よくわかっている。
やっぱしこの吉田秀和つー音楽家は本物であるだんべ。
そうして一億人の日本人の中で、私の最も大好きな人だ。